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August 2015

金華駅、2008年盛夏

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 「白滝シリーズ」の3駅とともに、 石北本線の金華(かねはな)駅も、廃止予定が報道されている。2008年8月、上白滝駅へ向かう途中、乗った列車が金華駅に停車した折に写真を撮っている。

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 駅舎の右に、乗ってきたワンマン列車が覗いている。駅前には廃屋と民家が並ぶ。

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 金華駅を通過する、臨時貨物列車(石北臨貨)。先頭のDD51の1150号機は、2015年に北海道で活躍する最後のJR貨物所属のDD51型となり、6月現在は苗穂工場にあるようだ。線路間のホームは崩れかかっているようにみえるが、ワンマン列車の一、二両なら、これで問題ないということか。

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 駅名標の次駅の表示にある「にしるべしべ」は、書き直されている。途中駅が廃止になったのではなく、金華駅と留辺蘂駅の間に、2000年4月に西留辺蘂駅が新設されたときに、修正されたのだろう。

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 駅舎のホーム側、平仮名で大きく「かねはな」と書かれた木製の板。扉の張り紙には「トイレの設備はありません」とある。右に見える青地に白文字の看板は、「常紋トンネル工事殉難者追悼碑 昭和55年11月建立 駅より約300m」との案内だ。
 
 金華駅から北へ、約4kmの25‰連続勾配を登った先にある、常紋トンネルの開通は1914(大正3)年10月で、その建設工事中の死者への追悼碑の建立は1980(昭和55)年11月のこと【追悼碑除幕(フォト海道)】。1970(昭和45)年9月、トンネル内の工事中に、建設時の「タコ労働者」のものと思われる人骨が発見され、その後数年かけて行われたトンネル周辺の発掘調査でも、遺骨が見つかった【前かがみの遺骨発掘(フォト海道)】。伝承ではなく物証として、トンネルから人骨が出てきたのは、常紋トンネルを除いて国内ではほかに知られていない。

 金華駅は、信号場として残ることが予想されるが、ここが駅でなくなると、鉄道で殉難者追悼碑を訪れるのは困難になる。 

(2008年8月、北海道、石北本線、金華駅) 

駅と神社と信号場、「白滝シリーズ」補遺

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 白滝の名をもつ4つの駅のうち、もっとも利用しやすい白滝駅。報道によれば、特急列車も停車するこの駅の廃止予定はないようだ。「白滝シリーズ」の記事の補遺として、白滝駅、「白滝シリーズ」各駅の発車時刻表、上白滝の駅周辺で見かけた事物諸々、加えて上白滝の隣に位置する上越信号場の写真を掲げる。

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 屋根に風見鶏のいる、白滝駅の駅舎。ホーム側も駅前広場側も似たような作りをしている。改築されていて新しいが、ここも駅員の配置のない、無人駅だ。

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 白滝シリーズの4駅の発車時刻表を並べてみる。下白滝(上左)、旧白滝(上右)、白滝(下左)、上白滝(下右)の順だ。下白滝と旧白滝の発車時刻表は、左が網走・遠軽方面、右が旭川方面になっているのに対し、白滝と上白滝のものは、左が旭川(・札幌)方面、右が(北見・ or 遠軽・)網走方面と、反対になっている。見比べると、白滝の発車列車の多さと、上白滝の少なさがよくわかる。 

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 白滝駅から上白滝駅まで歩く間にあった、ピースポールと「合氣道開祖植芝盛平翁ゆかりの地」と白滝村長名で揮毫された記念碑。開拓団を率いて、和歌山から植芝盛平翁がこの地に入植していたとは知らなかった。白滝に翁が居たのは1912(明治45)年から7年間だけだが、その間に大東流の武田惣角と出会ったという。
 私は合氣道の経験がないので、植芝盛平は、安彦良和のマンガ「虹色のトロツキー」に登場するキャラクターの印象が強い。武田惣角も同じく安彦良和の別作品である「王道の狗」に登場する。この記事を書くため調べていたら、遠軽町(白滝村は2005年に合併)の歴史を紹介するページ(「えんがる歴史物語」)が2014年に出来ていて、動画で植芝盛平を紹介しており(武田惣角も出てくる)、しかも安彦良和のイラストを使っている!

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 話は戻って、上白滝駅の近くにあった、上白滝神社。鳥居をくぐると、すぐに石北本線の線路がある。「危険 線路に入らないで下さい JR北海道」とあるが、横断しないと参拝できない。境内は夏草に覆われていた。神社は1918(大正7)年の建立で、植芝盛平も世話役となっていた。「えんがる歴史物語」にある、石北本線の開通前の撮影と思われる写真をみると、鳥居は建て替わっているが、社殿は当時のまま維持されているようだ。白滝〜上白滝間の鉄道が開通したのは1932(昭和7)年のことだが、鳥居のすぐ近くに鉄道を通して、支障はなかったのだろうか。今は真っ白な鳥居も、昔は蒸気機関車の煙で煤けていたに違いない。

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 上白滝駅から乗車した普通列車は、石北トンネルを抜けて上越(かみこし)信号場に停車した。行き違いの列車を待つ間、車中から撮った上越信号場の駅舎には「石狩北見国境標高六三四米上越駅」と掲示されている。ここは、石北峠のサミットであり、北海道における鉄道最高地点である。駅から信号場に格下げされたのは、1975年12月のことだ。

 「白滝シリーズ」のうち、下白滝駅旧白滝駅上白滝駅の3駅の廃止予定は、2016年3月のダイヤ改正時と報道されている。各駅のうち少なくとも、行き違い施設をもつ下白滝は、上越のように信号場として残ることだろう。

(2008年8月、北海道にて) 

「日本のいちばん長い日」(2015年)

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 岡本喜八監督による昭和版に親しんでいる者として、「リメイクはやばそう」という予感しかしていなかったが、友人を誘って、原田眞人監督による平成版を観に行った。「日本のいちばんつらい日」と言いつつ、鑑賞とその後の議論に付き合ってくれた友人に感謝である。どうしても昭和版と比較し、からい評価をしまうのは、やむを得まい。

 昭和版では描写されていない史実のエピソードをふんだんに盛り込むことで、差別化を図ろうとする意図はわかる。ただ、昭和20年4月の鈴木貫太郎への組閣大命降下から、8月15日の玉音放送までダラダラ続くものだから、内容が題名の「日本のいちばん長い日」と合ってない。英題の「The Emperor in August」にも合致していない。題名を変えよう。

 昭和版は、プロローグに7月26日のポツダム宣言を置いているとはいえ、8月14日から15日にかけて、事実上たった1日、24時間の群像劇を描いている。平成版では、天皇の裕仁、首相の鈴木貫太郎、陸相の阿南惟幾の三人(書記官長の迫水久常も入れたら四人)が主役となり、彼らが鈴木内閣組閣から御聖断を経て、終戦に向けて行動する数ヶ月の話をメインに据えている。天皇陛下という、「絶対に正しい人」が出てきて、終戦を望む発言を繰り返し、鈴木総理はもちろんのこと、阿南陸相もその意を汲んで動く。

 天皇陛下の意を理解できない人間の筆頭として、昭和版には登場しない、東條英機が出てくる。東條陸軍大将は、単身で陸軍省軍務課に乗り込み、軍務課員たる将校たちにハッパをかける!(史実じゃないよなあ)これでは、東條閣下に焚きつけられたから、青年将校が決起して宮城事件を起こしたみたいじゃないか。貴様ら、いつから皇道派みたくなったんだ。陸軍大学校を卒業した、帝国陸軍のエリート集団が、何たるザマだ。

 この描写のせいもあって、畑中少佐以下、宮城事件を起こす青年将校たちが、真面目なだけの流されやすい馬鹿に見える。昭和版では、「国体護持のために戦争を継続すべき!君側の奸を除くのだ!」という圧倒的(狂信的)信念があった(感じられた)からこそ、青年将校たちにも魅力があったのに、平成版では決起の理由付けが中途半端で、彼らの魅力は乏しい。なぜ決起するのかはっきりしないまま、森師団長をあっさり殺害し、ビラもまかずに簡単に自決してしまう。

 ナレーションも字幕による解説もなく、状況を台詞で説明する必要があるからか、登場人物は皆、感情をあらわによく喋る。結果、登場する軍人(ほぼ全員、佐官や将官、大日本帝国陸海軍の高級軍人)たちは、揃いも揃って軽い。エリートには見えない。軽すぎる。前述の青年将校や東條閣下をはじめ、電報持って階段を駆け下りて叫ぶ、参謀総長の梅津美治郞陸軍大将とか、あり得ん。一番、噴飯物だったのが、お前ただのチンピラだろ、海軍軍令部次長って嘘だろ、特攻隊への同情心なんか一切ないだろ!という感じの大西瀧治郎海軍中将だ。笑いすぎて涙が出てくる。大元帥陛下と鈴木と阿南以外みんな何なんだ...アメリカ相手によく四年も戦争継続できたね、この帝国陸海軍。

 昭和版は、様々な対置描写(宮城事件の青年将校⇔横浜警備隊の佐々木大尉、陸軍大臣の阿南⇔海軍大臣の米内、閣議⇔特攻出撃、など)がなされていて、とても重層的な物語だった。平成版では、神聖絶対不可侵の天皇陛下が前面に出てしまったおかげで、対置できるものがなくなり、陛下以外みーんな軽くなってしまったのかな。その結果、天皇陛下の重みも、よくわからなくなってしまっている。対置のかわりといっては何だが、昭和版では出てこない、鈴木や阿南の家族、侍従や放送局の女性たち、が平成版には出てきた。これにより、最近の日本の戦争映画の定番である、家族への愛情の描写や、現代的な意味で大切な、女性の活躍シーンが追加され、閣僚や軍人たちの日本帝国のエリートとしての信念や矜持は、ますます希釈された。結果、クライマックスシーンである、阿南の自刃も、何で腹を切る必要があるのか、判然としなくなった。

 昭和版には、岡本喜八監督の、人間を死に追いやる、国家権力の愚劣と横暴への怒りの発露、とでもいうべきものがあった。閣議で詔書の文言修正のやりとりをしている間に、アメリカ機動部隊に向けて特攻隊が出撃してしまうシーンとか、ラストに戦争による死者や被害者の数をひたすら写すシーンとか。
 原田眞人監督は、そういうのお嫌いなんでしょうね。平成版には、そんな描写は微塵もない。パンフレットによれば、「天皇を家長とする日本という国家」を描いたそうだ。
 「天皇陛下、万歳!国体、万歳!ヽ(^o^)丿
 とすると、この平成版は、逆説的に、「国家(=陛下とその周辺の権力者たち)は、国民が何十、何百、何千、何万、死のうが興味はなくて、大事なのは天皇陛下の国体護持(と自分の家族)だけ」なのが、より際だっていても良さそうなものだが、そういうわけでもない。ポツダム宣言受諾や玉音放送を嘆くシーンは、しょぼい。昭和版では、終戦を実際に体験した俳優しかいなかったから、随所で出てくる涙のシーンは、帝国が滅ぶのを嘆き悲しむ、ある意味で本物の号泣だったのだなあ。

 最後に、天皇陛下がたくさん登場するせいか、なんか空気感が清浄で、誰も汗ダラダラかいていないし、空調が効いた感じですごい涼しそう、と思ったら、撮影は冬に行われたようだ。映像なんだから、何とかしてくれ。

 昭和版の完成度の高さ、および、昭和版は観客の実体験を前提にしていたからこそ、名作たり得ていたのだ、ということがあらためてわかった。平成版、ディテールを頑張ったのは認めるものの、終戦70年にぴったりの、いかにも平成の世に作られた、つらい戦争映画でありました。題名を変えてくれ(2回目)。そしたら観ないですんだ(未練)

下白滝駅、2009年初春

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 旧白滝駅から歩き、「白滝発祥の地」での撮影を経て、下白滝(しもしらたき)駅に向かう。国道から駅舎まで伸びる道路の雰囲気に、かつての駅前の隆盛が感じられる。駅舎の中にみえる人影は、撮影地で合流した友人だ。

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 下白滝駅に停車する列車は、遠軽・網走方面が朝に1本、白滝本面が午後に3本で、隣の旧白滝駅と変わらない。下白滝と旧白滝の発車時刻表とを見比べると、両駅間の所要時間は、6〜7分となる。

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 下白滝駅は、上白滝駅や旧白滝駅とは異なって、行き違いの可能な線路配置になっており、ホームも2面ある。貨物列車のために設定されたのだろう、待避線の有効長はかなり長く、対向式ホームは完全に互い違いの配置になっている。

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 普通列車を待つ間、臨時貨物列車(石北臨貨)と、「ノースレインボーエクスプレス」を使用した、「流氷特急オホーツクの風」が通過していった。石北臨貨の前後を固めるDD51型機関車だが、1057号機は写真を撮った数ヶ月後に廃車となり、1146号機は2014年に北海道から愛知へ移動したものの、長期間にわたって動いていないようだ。
 
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待つこと一時間、駅舎の庇に垂れ下がる氷柱を折って遊ぶのにも飽きたあとで、ようやく旭川行き普通列車がやってきた。列車の左上、ワンマン運転用ミラーの中に、友人と私が写り込んでいる。やはりここでも、我々のほか利用客はなかった。

(2009年2月、北海道、石北本線、下白滝駅にて) 

旧白滝駅、2009年初春

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 旧白滝(きゅうしらたき)駅を訪れたのは、2009年の2月。前年夏に上白滝駅を訪問したことで欲が出て、通称「白滝シリーズ」の全駅を利用しよう、と考えたのだ。旧白滝駅には、朝に遠軽・網走方面行きが1本、昼から夕方にかけて旭川方面行きが3本、合わせて一日たった4本の列車が発着する。遠軽発白滝行きの単行ワンマン列車に乗り、時刻通りに旧白滝駅に着いた。私のほか、乗り降りはない。
 
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 旧白滝駅は、上白滝駅や下白滝駅とは異なり、駅ではなく仮乗降場として開業したため、駅舎というより待合室といった雰囲気の建屋になっている。撮影者の映り込む発車時刻表をみると、上白滝駅の時刻表に比べて倍の本数が発車している。
 
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 長年の風雪のせいか、駅名標は傾いている。踏み固められたホームの足跡のうち、どれだけが駅の利用者によるものなのだろう。冬季封鎖となっている踏切を渡って、国道333号線に出る。石北本線の88K313M地点にあるこの踏切の名前は「墓地」だった。

 除雪された国道を、下白滝駅の方向へ歩く。友人の待つ「村名”白滝”発祥の地」の碑のある公園に急がねばならない。石北本線のS字カーブを見下ろす有名な場所で、特急「オホーツク」を撮影するのだ。

(2009年2月、北海道、石北本線、旧白滝駅にて) 

上白滝駅、2008年盛夏

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 2015年7月、報道により廃止の計画が明らかになった、JR北海道石北本線の上白滝(かみしらたき)駅。上り列車が一日1本、下り列車が一日1本しか止まらないこの駅を、私は2008年の8月に訪問した。
 遠軽から白滝までの普通列車を下り、上白滝へ歩く。悪天候が続き、北海道とは言え、ひどく寒い夏だった。
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 古い駅舎は、きちんと手入れされていた。線路が一本、ホームも一面と、今では最低限の設備しかないが、かつては行き違いの可能な線路配置で、対向式ホーム、貨物側線もあった。ワンマン運転用のミラーが目立つ。 
 
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 中はとてもきれいに清掃されていた。駅舎の隅の小さなテーブルの上に、駅ノートが写っている。何か書き込んだような気もするが、覚えていない。発車時刻表は、旭川方面も遠軽・網走方面も、それぞれ1行を除いてすべてが空欄だ。
 
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 停車する列車は少ないが、通過する列車は何本もある。特急「オホーツク」や網走からタマネギを運ぶ臨時貨物列車(石北臨貨)だ。途中のスイッチバックと勾配とのために、貨物列車には両端に機関車がつく。当時、廃止が噂されていた石北臨貨は、DD51にかわってDF200が牽引するようになり、現在も存続している。写真のDD51の1073号機と1151号機は、共に廃車解体となった。
 
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 上白滝駅から東隣の白滝駅までは3.3km。一方、西隣の上川駅までは、34.0kmも離れている。かつては途中に、奥白滝(おくしらたき)、上越(かみこし)、中越(なかこし)、天幕(てんまく)の4駅があった。1975年12月に上越駅が消え、残る3つも、2001年7月に駅としての役目を終えた。駅名標の次駅がシールで「かみかわ」に訂正されたのは、その時のことだろう。
 
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 待つこと数時間、上白滝に停まる旭川方面行きの始発列車、かつ、本日の最終列車がやってきた。上白滝駅で乗り降りする人は、私のほかには誰も居なかった。

(2008年8月、北海道、石北本線、上白滝駅にて)

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 高木宏之「日本陸軍鉄道連隊写真集」潮書書房光人社、2015年8月発行

 発売されたばかりだが、なぜか古本屋にわりと安く出ていたので購入した。内地における訓練(第1章)、日露戦争(第2章)、シベリア出兵(第3章)、満州方面(第4章)、北支方面(第5章)、資料篇という構成。素晴らしい写真に詳細な解説が施されている。

 全体の5分の2を占める第1章では、鉄道第一連隊【1907(明治40)年9月編成】と鉄道第二連隊【1918(大正7)年5月編成】が、演習線の建設や省線での運転といった訓練、各地の鉄道の建設や復旧活動を行う。各地の鉄道建設の写真は1920年代、演習地での訓練の写真は1930年代が多い。当然ながら、装備も沢山写っている。双合機関車、九一式貨車、九七式貨車、九一式広軌牽引車、九四式軌条敷設車、九八式鉄道牽引車、九一式軽構桁鉄道橋、九三式手延式鈑桁架設機、九一式軌匡車、九一式軽便牽引車、九三式重構桁鉄道橋、訓練用装甲列車、広軌機関車「特殊ミカ」、国鉄から陸軍に転換された各種機関車(119、B10 4、5924、5605)、などなど。ペショ式BBタンク機(フランス製)、内燃機関車(ドイツ製)、ガソリン機関車(アメリカ製)といったものは初めて知った。
 
  第2章は、日露戦争における臨時鉄道大隊が行った建設工事(軍用軽便鉄道安奉線・奉新線)や東清鉄路の修理作業、戦後の旅順や大連の写真など。1904(明治37)年から1906(明治39)年にかけての撮影。
 
  第3章は1918(大正7)年から1922(大正11)年までのシベリア出兵。日本軍が鹵獲あるいは編成した装甲列車や、「過激派軍」が破壊したシベリア鉄道の橋梁の様子や、日本軍(臨時鉄道連隊)によるその修復作業、また北樺太における軍用軽便鉄道の建設工事が収録されている。出兵時、シベリア鉄道のうち約5000km(イルクーツクからチタ、ハバロフスクを経てウラジオストックまで、ザバイカル・アムール・ウスリーの各鉄道)を管理していたのは、日本軍の臨時鉄道連隊だったのか。
 
  第4章は満洲方面。関東事変前の独立守備隊が主で、1930年代の写真が多い。秩父宮や溥儀が乗った特別車トク1、「あじあ」号、さらに鉄道連隊には直接関係しないと思われる、南鮮や北鮮方面の写真もある。満洲現地で編成された、鉄道第三連隊【1934(昭和9)年2月編成】や鉄道第四連隊【1938(昭和13)年3月編成】が登場する。
 
  第5章は北支方面で、1940年頃まで。盧溝橋の戦闘記念碑の写真も出てくる。鉄道第六連隊【1937(昭和12)年10月編成】の山西省における活動が主だ。

 情報量豊富で、とてもいい写真集だ。

 以下は、近現代日本の歴史に興味のある人間として、気になったこと。

 本書の本質的な価値を下げるものではないが、第4章のシベリア出兵の背景や経緯の説明は、日本の行動がやたらと受動的に描かれ、言い訳がましく他国を非難した記述になっていて、実際に何が起きていたのかよくわからない。その書き様と、敵のことをひたすら「過激派」と表記していることからみて、参考文献にある参謀本部の資料(西伯利亜出兵史)から引き写しにしたものだろうか。
 一世紀も昔の戦争で、事実上の対戦相手であったソ連も赤軍も消滅しているのだから、現代までに蓄積された、研究の成果を用いた記述は容易だろうに。
 あとがきに「武運つたなく戦場に倒れた幾多の英霊の功績をたたえ、後世に伝えることは、諸外国に指摘されるまでもなく、正しい歴史認識の形成に不可欠の部分であり、本書がその一助となれば、著者望外の喜びである」とあった。
 当時の資料を再編し、21世紀に公開することは素晴らしいことだ。だが正体不明の「正しい」歴史認識は、事実を見る目を曇らせる。

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