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March 2017

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 セロトニン再取り込み阻害薬を飲み始めて半年。最悪の状態はなんとか脱し、就職活動をこなせる程度にまでは回復したものの、たまに心がつまずくと、数日寝込むこともある。この脳が完治することはないのだろう。両親も兄妹も少し離れた親戚もどいつもこいつも、DepressionだったりASD/ADHDだったり失踪していたりするのだから、私がこの状態に陥ったのは当然の成り行きともいえる。遺伝と環境を恨んでも仕方ないと言い聞かせ、人生に対する絶望はおくびにも出さないようにして、引きつった笑顔で今日も就職活動をする。少しでもまともな環境に身を置きたいが、どこに居場所を定めたところで、外見と肩書きから想起される人間像に合わせて、私は舞踏を続けてみせるしかないのだ。

長浜鉄道スクエアのD51形(2016年11月)

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 北陸本線の長浜駅に隣接する「長浜鉄道スクエア」は、「旧長浜駅舎」「長浜鉄道文化館」「北陸線電化記念館」の3つの建物からなる。このうち「北陸線電化記念館」の館内には、蒸気機関車(D51形793号機)と交流電気機関車(ED70形1号機)が並べられている。

 D51 793号機は、三菱重工業神戸造船所で1942(昭和17)年11月18日に竣工し、東海道・中央西・北陸の各線を走り、1970(昭和45)年6月25日に廃車となった。廃車から4ヶ月後の10月21日から、長浜城の本丸跡地の豊公園に保存され、1995年に長浜駅南の現在地に移設、さらに2003年7月からは新設された「電化記念館」に収められ、現在に至っている。
 
 本機を屋外から「電化記念館」に収容した時の記録が、作業を担当した長浜の建設会社のホームページにある(→リンク)。曳家を専門とするこの会社の手で、機関車とレールをまとめて移動していく様子が紹介されている。解説によれば、D51 793号機の車輪はレールに溶接されているとのこと。保存車が屋内から屋外に追い出される例は多々あるが、逆のケースは珍しい。D51 793号機は幸運な保存車といえるだろう。
 
 WEB上のD51 793号機の写真は、保存後に撮影されたものばかりで、現役時代の姿はほとんどない。廃車時期が比較的早く、さよなら運転など晴れ舞台の経験もなかったためだろう。探索して見つかった現役時代の写真はわずか1枚、1968(昭和43)年8月に糸魚川機関区で撮られた、鷹取工場式の集煙装置を装備した姿だ(→リンク)。これ以外に、廃車後に集煙装置を外され、長浜駅の側線に留置されている様子が、1970(昭和45)年の秋にカラーで記録されている(→リンク)。このカラー写真により、D51 793号機の煙突が、集煙装置取り付けのため短縮されていることがわかる。また保存直前にはナンバープレートが緑色に塗られており、さらに煙突のトップや前部の握り棒など、現在では黒色で塗りつぶされている部分が、当時は金色や白色で飾られていたことも確認できる。
 
 本機の外見的特徴は、正面から見て右の除煙板の下端部の、三角形の切り込みである。上述の1968年と1970年の写真にも、この部分がはっきりと写っている。おそらく、機関車の誘導を行う職員が、先輪横のステップに足を乗せた際に、除煙板の前端の握り棒をつかみ易くする工夫と思われる。

 除煙板の切り込みは、D51 793号機に加えて少なくとも3両のD51形(89・688・876号機)に施工されたことが、写真記録からわかる。どの機関車も、金沢鉄道管理局に属していた時代に改造された模様で、いずれも松任工場の手によるものと考えられる。片方の除煙板の一部分のみで、見た目も地味な改造ではあるが、長浜の本機のほか、豊橋にD51 89号機が、また岡崎にD51 688号機が、切り込み付き除煙板を装備したまま、美しい状態で今も維持されている。そのうち実見しにいこう。
 
(2016年11月、長浜鉄道スクエア) 

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