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長浜鉄道スクエアのD51形(2016年11月)

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 北陸本線の長浜駅に隣接する「長浜鉄道スクエア」は、「旧長浜駅舎」「長浜鉄道文化館」「北陸線電化記念館」の3つの建物からなる。このうち「北陸線電化記念館」の館内には、蒸気機関車(D51形793号機)と交流電気機関車(ED70形1号機)が並べられている。

 D51 793号機は、三菱重工業神戸造船所で1942(昭和17)年11月18日に竣工し、東海道・中央西・北陸の各線を走り、1970(昭和45)年6月25日に廃車となった。廃車から4ヶ月後の10月21日から、長浜城の本丸跡地の豊公園に保存され、1995年に長浜駅南の現在地に移設、さらに2003年7月からは新設された「電化記念館」に収められ、現在に至っている。
 
 本機を屋外から「電化記念館」に収容した時の記録が、作業を担当した長浜の建設会社のホームページにある(→リンク)。曳家を専門とするこの会社の手で、機関車とレールをまとめて移動していく様子が紹介されている。解説によれば、D51 793号機の車輪はレールに溶接されているとのこと。保存車が屋内から屋外に追い出される例は多々あるが、逆のケースは珍しい。D51 793号機は幸運な保存車といえるだろう。
 
 WEB上のD51 793号機の写真は、保存後に撮影されたものばかりで、現役時代の姿はほとんどない。廃車時期が比較的早く、さよなら運転など晴れ舞台の経験もなかったためだろう。探索して見つかった現役時代の写真はわずか1枚、1968(昭和43)年8月に糸魚川機関区で撮られた、鷹取工場式の集煙装置を装備した姿だ(→リンク)。これ以外に、廃車後に集煙装置を外され、長浜駅の側線に留置されている様子が、1970(昭和45)年の秋にカラーで記録されている(→リンク)。このカラー写真により、D51 793号機の煙突が、集煙装置取り付けのため短縮されていることがわかる。また保存直前にはナンバープレートが緑色に塗られており、さらに煙突のトップや前部の握り棒など、現在では黒色で塗りつぶされている部分が、当時は金色や白色で飾られていたことも確認できる。
 
 本機の外見的特徴は、正面から見て右の除煙板の下端部の、三角形の切り込みである。上述の1968年と1970年の写真にも、この部分がはっきりと写っている。おそらく、機関車の誘導を行う職員が、先輪横のステップに足を乗せた際に、除煙板の前端の握り棒をつかみ易くする工夫と思われる。

 除煙板の切り込みは、D51 793号機に加えて少なくとも3両のD51形(89・688・876号機)に施工されたことが、写真記録からわかる。どの機関車も、金沢鉄道管理局に属していた時代に改造された模様で、いずれも松任工場の手によるものと考えられる。片方の除煙板の一部分のみで、見た目も地味な改造ではあるが、長浜の本機のほか、豊橋にD51 89号機が、また岡崎にD51 688号機が、切り込み付き除煙板を装備したまま、美しい状態で今も維持されている。そのうち実見しにいこう。
 
(2016年11月、長浜鉄道スクエア) 

ポッポ広場のD52形(2016年8月)

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 御殿場駅の北には「ポッポ広場」という名の公園があり、D52形72号機が保存されている。同機は1944(昭和19)年5月に川崎車輌兵庫工場で竣工、1954(昭和29)年12月以降、国府津機関区に所属し御殿場線で活躍した。電化に伴い、同線の蒸気機関車は1968(昭和43)年6月30日に引退する。D52形72号機はこの最終日を、正面にヘッドマークを掲げ、煙室扉周りに花飾りをちりばめ、側面にメッセージボードを載せた、派手な装いで過ごした。廃車は同年の8月8日付。同機は解体を免れ、国府津機関区の扇形庫内に長らく保管されたのち、1978(昭和53)年7月から御殿場市内の湯沢平公園に展示された。現在地への移動と整備が行われたのは、2010(平成22)年の9月から11月にかけてのことである。
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 戦時急造のため、代用資材を用いた部分が多く、出来もよろしくなかったD52形は、戦後に状態改善のための整備が行われた。72号機の場合、運転室の側面の「日本国有鉄道 浜松工場 昭和30年」の円形の銘板と、除煙板の穴から見える「ボイラ浜松工場製 昭和34年2月」と書かれた小さな長方形の銘板が、その整備の証である。
 現在、72号機の前面のナンバープレートは湾曲している。オリジナルは鋳造のはずで、このように歪むとは思えない。また、この曲がったナンバープレートの四隅のボルトは、現役時代にはなかったものだ。WEB上の写真を確認すると、引退後の国府津での保管中に、盗難にでも遭ったのか、元のプレートが消え、おそらく現在と同じ木製のものが取り付けられたことがわかる。なお、72号機の炭水車後部のナンバープレートも消失していて、こちらはレプリカもないまま、取り付け用の足のみが今も虚しく残っている。

(2016年8月、御殿場駅)

津和野駅前のD51形(2008年8月)

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 SL「やまぐち」号の終点である津和野の駅前には、D51形194号機が保存されている。同機は1939(昭和14)年3月25日に国鉄大宮工場で竣工し、津和野にある山口線管理所の所属となったのは、竣工から32年後の1971(昭和46)年3月25日のことだ。1973(昭和48)年9月30日には山口線の「さよならデゴイチ」列車の先頭に立ち、廃車は同年の11月30日だった。津和野の扇形庫に保管されたのち、町を見下ろす国民宿舎青野山荘に保存された。青野山荘は2003年3月をもって廃業し、放置され廃墟化していく施設と共に、D51形194号機も荒廃していったが、幸いなことに2006年5月に津和野駅前に移され、現在に至る。
 写真は2008年8月に撮影したもの。機関車の後ろに津和野駅の跨線橋が見える。白色や赤色の装飾が車体の各所に施されているが、現在では現役時代に近い黒一色の塗装となっている。ヘッドライトの後ろの箱は、山口線のトンネルと勾配に対応するため取り付けられた、長野工場式の集煙装置で、SL「やまぐち」号を牽くC56形160号機やC57形1号機も装備している。もう間もなく、SL「やまぐち」号の牽引機として、194号機と同形で、車番も近いD51形200号機が走り始める予定である。SL列車の運転が続く限り、D51形194号機は津和野駅前のシンボルとして、大切に維持されるに違いない。

(2008年8月、津和野駅) 

愛国駅の9600形(2008年8月)

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 帯広から南に伸びていた国鉄広尾線は、1987(昭和62)年2月に廃止となった。その途中駅である愛国駅は、近くの幸福駅とともに駅名のおかげで有名になり、鉄道路線が消滅した現在でも観光地となっている。愛国駅には駅舎とホーム、それに線路の一部が残り、蒸気機関車も1両保存されている。

 その機関車は、9600形19671号機。1918(大正8)年3月28日、当時の川崎造船兵庫工場で竣工し、北海道の鉄路を走り続けた。長らく追分機関区で働いた後、1972(昭和47)年9月1日に帯広運転区に移り、広尾線を最後に引退した車両だ。
 WEB上には、趣味者によって記録された、19671号機の現役末期の姿が多数ある。1970年代の同機は、何本かの黄色の斜めの帯が、正面の煙室扉、前部の連結器周りの端梁、除煙板の側面前端などに塗られていた。ゼブラ塗装、またはトラ塗り、あるいは警戒塗装と呼ばれる姿だ。貨物や入換に用られた蒸気機関車において、前頭部や炭水車後部のゼブラ塗装は、特に珍しいものではない。だが追分機関区に所属していた当時の19671号機は、入換専用機であったためか、炭水車が側面まですべてゼブラ塗装となっており、かなり目立つ姿だった。帯広運転区に移ったのちは、派手な黄色の塗装面積は少なくなり、入換のほか、広尾線や士幌線の貨物列車の牽引にも従事していたようだ。

 1975(昭和50)年5月3日、19671号機は広尾線の「SLさようなら列車」の牽引機となった。この晴れ舞台において、19671号機のゼブラ塗装は完全に消え、スノープロウの前端やボイラをまたぐハシゴなど、車体の各所に装飾の白塗りが施された。同じ9600形の9654号機が、同じようにメイクアップされ、両機の重連で列車を牽引した。2両の機関車は終点の広尾駅のターンテーブルで向きを変え、特製のヘッドマークを掲げた19671号機が、往復ともに9654号機を従え、列車の先頭に立った。
 「さようなら列車」の客車は7両編成で、その形式車番の詳細はわからないが、カラー写真を見る限り、帯広から広尾に向かって、|スハフ44青+スハ45青+スハ45茶+スハフ44青|+スハ45青+スハ45茶+|スハフ44(青?)の組成と思われる(スハフ44の前後の「|」は車掌室の位置を示す)。写真からは、満員の乗客と多数の撮影者による、お祭り騒ぎの熱気がうかがえる。

 イベントの翌月、1975(昭和50)年の6月25日に、19671号機は廃車となった。記念の列車の先頭を飾ったおかげか、同機は帯広の緑ヶ丘公園に保存され、その後、広尾線の廃線に伴い交通記念館として整備された愛国駅に移動し、現在に至っている。
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 私が現地を訪れたのは、2008年の8月。悪天候の続く寒い夏だった。雨に濡れた機関車は鈍い光沢を帯びており、露天展示による痛みは見られなかった。冬季にはシートで覆われるなど、19671号機は大切に維持されている。もう間もなくの竣工100周年も、無事に迎えることだろう。

(2008年8月、愛国駅)

銀河公園のC56形(2009年3月)

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 小海線の野辺山駅の前には、銀河公園という小さな公園があり、蒸気機関車が1両保存されている。この機関車はC56形96号機で、日本車輌名古屋工場において製造され、1937(昭和12)年3月15日に国鉄に納入、およそ10年を北海道で過ごした後に信州に移り、1973(昭和48)年7月20日の廃車まで活躍を続けた。

 同機が飯山線や小海線を走ったことは、WEBにある写真や動画で確認がとれる。だが、信州時代の所属機関区の変遷については、展示場所にある解説板、沖田祐作「機関車表」、WEB上の「デゴイチよく走る!」の機関車データベース、それぞれの記述がまったく異なっていて、どれが正しいのか判断がつかない。本機の機関車履歴簿を確認できれば、正解がわかるのだろうが、現存しているのかしら。

 廃車後、C56 96号機は野辺山駅の近くに設けられた「SLホテル高原列車」の一員として、5両の客車(オロネ10 2016+オロネ10 2071+オロ80 2008+オロネ10 69+オロネ10 28)の先頭に据えられた。この客車を並べたホテルは、オロネ10のA寝台の2段ベッドをそのまま用いて、1両あたり28名、4両で合計112名を定員とし、編成中央に連結されたオロ80の車内の畳敷のお座敷は、フリースペースとして用いられた。ホテル列車の営業期間は10年強で、往時の写真を見ると、樹木がぐんぐん成長していき、周囲の雰囲気がどんどん変化するのがわかる。ホテルの閉業後、客車はすべて解体されたが、機関車のみは移転し生き残ることができた。

 現在、C56 96号機の前頭部の連結器解放テコは、その半分が押し潰されたような形に歪んでいる。この状態は銀河公園への移設直後から、ずっと変わっていない。何かをぶつけた衝撃で変形し、以来ほったらかしなのだろう。部品を交換するなり、歪みを叩き直すなりして貰えれば、見栄えが良くなると思うが、屋根がある現状だけで、保存機としては御の字とするべきか。

(2009年3月、野辺山駅) 

吉松駅のC55形(2009年8月)

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 肥薩線と吉都線が分岐する、鹿児島県の吉松駅。その駅前には鉄道資料館があり、C55形52号機が保存されている。この機関車は、汽車会社大阪工場で1937(昭和12)年3月14日に製造され、2年ほど山陽地区を走った後、本州から九州に移り、鳥栖、大分、宮崎、若松、吉松の各機関区を経て、鹿児島機関区を最後に現役を退いた。大分機関区の在籍期間が最も長く、1939(昭和14)年から1964(昭和39)年まで四半世紀に及び、その間に除煙板の門鉄デフへの改修や、炭水車の振り替えが行われた。C55 52号機が廃車となったのは1975(昭和50)年2月17日のことで、C55 57号機(同年3月31日廃車)と共に、C55形最後の現役機となった。

 C55 52号機の吉松での展示は、廃車直後の1975(昭和50)年3月5日から始まった。現状では屋根も架けられており、とても良好な保存環境にある。冒頭の写真は、2009年8月に撮影したもの。当時の私は知識も興味もなかったため、機関車の細部はおろか、斜め前からの全景も撮影していない。だが幸いにも、正面から撮影した写真には、向かって左上のデフのステーから立ち上がるリンゲルマン式煤煙濃度計の取り付け部や、本機のみが装備した面積の広い門鉄デフといった、特徴的なパーツが写っている。車体は黒光りしており、ヘッドライトも点灯していて、まるで現役機の様に凛々しい。

 C55 52号機は1953(昭和28)年に、C55形オリジナルの12-17形の炭水車を、D51 12号機の8-20形のものと交換した。同様の振り替えはC55 51, 53, 54号機にも実施され、石炭の最大積載量は12tから8tに減ったものの、水の積載量は17tから20tに増え、長距離運用が可能となったと、雑誌やWEBに書かれている。だが、この4両のC55形が、何の列車のどこの区間のロングランを担当していたのかが、分からない。大分機関区の受け持ちであるから、おそらく日豊本線の急行列車かと思われるのだが、記録者の少ないこの時代の情報は、簡単には探し出せなかった。調べるべき事項が、また増えた。

参考:「鉄道ファン」1997年10月号特集「機関車C55・C57」

(吉松駅、2009年8月)

上毛高原駅前のD51形(2008年12月)

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 上越新幹線の上毛高原駅前には、数年前までD51形745号機が展示されていた。この蒸気機関車は日本車輌名古屋工場製で、1943(昭和18)年8月30日に竣工、関東を走り続け、高崎第一機関区を最後に1970(昭和45)年9月9日に廃車となった。同年10月14日に準鉄道記念物の指定を受け、高崎鉄道管理局にて保存。その後、上毛高原駅前に展示されたが、「あぶない‼︎うえにのってはいけません。」の注意書きや、テンダーに取り付けられた解説板と共に、2011年11月に水上駅の転車台広場へ引っ越し、現在に至っている。
 私が上毛高原駅を訪れたのは、2008年の12月。長期の屋外展示の割に、D51 745の痛みは少なく見えたが、キャブの非公式側の窓ガラスと窓枠が無くなっていた(左写真)。水上駅への移設後も、機関車の本格的な修繕は行われていないようだ。準鉄道記念物である以上、JR東日本の管理下にあるはずなので、見た目は多少ボロでも静態保存機としては安泰だろう。
 2011年の移動の様子はWEB上に無数に記録されているが、それより四半世紀は昔のことと思われる、D51 745の上毛高原駅前での展示開始時期に関する記述はどこにも見当たらない。上越新幹線の駅が開業した、1982(昭和57)年11月15日の前後の「鉄道ファン」や「鉄道ジャーナル」のページをめくってみても、D51 745が登場する記事は見つからなかった。気にはなるが、まるで益のない話なので、のんびり調べよう。

(2008年12月、上毛高原駅) 

中山平温泉駅のC58形(2008年8月)

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 陸羽東線の中山平温泉駅には、一台の蒸気機関車が置かれている。このC58形356号機は、川崎車輌兵庫工場で製造され、1944(昭和19)年1月21日に竣工した。王寺、宮古、盛岡、八戸の各機関区を経て、1972(昭和47)年6月26日に小牛田機関区の配置となり、1973(昭和48)年6月16日に廃車となった。陸羽東線の貨物列車の先頭に立つ、現役時代末期のC58 356の姿が、鉄道ホビダス「国鉄時代」にある(リンク)。
 私が中山平温泉駅にC58 356を見たのは、2008年8月のこと。引退から35年を経た同機は、屋外にあるためか相当くたびれていた。気象庁によれば、中山平に近い川渡における降雪量は、1981〜2010年の平均で年間462cm、同じく最深積雪の平均は53cm。雪をさえぎる覆いはなく、雪下ろしもされないため、機関車の損傷は年を追うごとに進む。2016年現在のC58 356は、ヘッドライトの主灯が垂れ下がり、予備灯が無くなり、さらに悲惨な姿になっている。このまま朽ち果て、やがて解体という最期を迎えるのだろうか。

(2008年8月、中山平温泉駅) 

糸魚川のC12 SLパーク(2016年12月)

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 糸魚川駅の南東、糸魚川小学校の校庭脇に「C12 SLパーク」がある。同地に保存されているC12形88号機は、汽車製造株式会社の大阪工場から1934(昭和9)年12月26日に納入され、1935(昭和10)年1月10日に糸魚川機関区に新製配置された。以来、1972(昭和47)年10月23日に廃車となるまで、C12 88は糸魚川機関区を寝ぐらとし、姫川に沿って煙を吐き続けた。廃車翌年の6月22日、国鉄から糸魚川市への機関車の引き渡し式が開かれ、糸魚川小学校での展示が始まった。
 現役時代や廃車直後に撮られたカラー写真では、当機のナンバープレートは黒色だが、現在は緑色になっている。握り棒、手すり、解放テコ、車輪、ロッドなど各部に施された白色や赤色も、現役時代には無かったものだ。このような装飾的な塗装は、保存蒸機によく見られる。
 2011年頃、校舎の建て替えに伴い、C12 88は道路近くに移設された。さらに2014年頃、北陸新幹線延伸開業による糸魚川駅の整備に合わせ、周囲の敷地は「C12 SLパーク」という小さな公園になった。新設された解説板には巧みな英文も添えられてるが、C12を置き換えた「DD16ディーゼル機関車」が、「DD16 steam locomotive」と誤って記述されている。 

(2016年12月、糸魚川)

福知山駅南口のC11形(2016年12月)

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 福知山駅の南口には、ターンテーブルに載ったC11形40号機が展示されている。12月に現地を訪れたところ、C11のキャブにはサンタクロースと大きなクマが乗っており、車体には電飾の配線が這い回っていた。
 同機は1933(昭和8)年12月19日、川崎車輌兵庫工場から国鉄へ納入され、38年を経た1971(昭和46)年11月24日に廃車となった。その後、1972(昭和47)年3月29日から篠山口駅近くの丹南町公民館に保存、それから34年後の2006(平成18)年12月25日に移転式が開催され、翌年、福知山駅前の現在地に移された。
 ターンテーブル前に設置された解説板には「この機関車は昭和19年から昭和31年まで篠山線を走っていた」と書かれている。ところが、日本の機関車の履歴を網羅している沖田祐作の「機関車表」を確認すると、C11 40は、1945(昭和20)年9月19日に新宮機関区に所属しており、同機の牽引する列車が、紀勢西線の宇久井〜那智にて脱線事故を起こしたとある。また同機は、1955(昭和30)年8月1日現在に至るまで、新宮機関区の所属であり、篠山線を受け持つ福知山機関区に移動するのは、1956(昭和31)年11月のことと記述されている。 紀伊勝浦にいた機関車が、同時期に丹波篠山で走ることはあり得ない。解説板に書かれた内容は、誤りと考えるのが妥当だろう。
 WEB上には、C11 40の丹南町での保存時代(平成13(2001)年9月)に、「篠山線SL保存会」が製作した解説板の写真がある。そこには「昭和19年3月21日から昭和31年3月26日まで篠山線を走り続け」と書かれている。現在の福知山の解説板の内容は、この記述を引き継いだものだろう。保存機関車に付けられた説明文の間違いは珍しくもないが、日付まで特定された誤記の根拠が気になる。他の機関車の記録と取り違えたのだろうか。それとも国鉄提供の資料に誤りがあったのだろうか。調べたかぎり、篠山線を走るC11 40の写真も見つからず、解説板の記述がどこまで事実なのかは定かでない。
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 福知山駅の北東、新町商店街の「福知山鉄道館ポッポランド」を訪れると、C11形40号機のナンバープレート、製造銘板、重量換算銘板がショーケースに収められていた。駅前の機関車に付けられたプレート類は、本物ではなくレプリカということか。

(2016年12月、福知山)

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