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Amiral_Charner_1934
 1932年の10月に竣工した、通報艦「アミラル・シャルネ」は、フランス領インドシナ(仏印)に派遣され、同地のフランス海軍極東部隊に所属した。1940年の6月に、フランス本国がドイツに降伏すると、9月に北部仏印に日本軍が進駐してきた。仏印所在のフランス軍は、基本的に戦闘を避けたため、「アミラル・シャルネ」もまた、日本軍と砲火を交えることはなかった。しかしながら、1940年11月に勃発したタイと仏印との国境紛争に際しては、1941年1月のコーチャン島沖海戦に参加している。「アミラル・シャルネ」は、極東部隊旗艦の「ラモット・ピケ」、通報艦「デュモン・デュルヴィル」「ツール」「マルヌ」と共に、タイ艦隊を撃破した。
 1941年の7月、日本軍は南部仏印にも進駐、南方侵攻に向けた基地の建設や部隊の訓練を行うようになる。仏印全土が日本軍の支配下におかれたものの、形式上はフランス軍と日本軍が共同で仏印を防衛することになったため、「中立国」のフランス海軍の一隻として、「アミラル・シャルネ」は武装解除を受けることなく現役を続けた。1941年12月の太平洋戦争勃発後も、そのまま仏印に残ったが、大戦末期の1945年3月、仏印政府の解体とフランス軍の武装解除を目的に、日本軍が発動した明号作戦に際し、「アミラル・シャルネ」はメコン川のミトー近郊にて自沈して果てた。

 「アミラル・シャルネ」は、1945年3月9日、日本軍から逃れるべく、すでに米軍が奪還していたフィリピンを目指したが、日本軍機の攻撃を受けて脱出を断念し、10日に自沈したという。ただ、フィリピンに向かう意図や用意が、本当にあったのだろうか?それに、同艦を攻撃した日本軍の航空機は、陸軍機なのか海軍機なのか?そもそも日本軍の航空隊は明号作戦に参加していたのか?攻撃受けた時や自沈した時の具体的な状況はどうだったのか?明号作戦やフランス海軍極東部隊が、あまりにもマイナーなため、細部はあやふやで、よくわからない。

 戦史叢書の明号作戦の巻を眺めた限りでは、「アミラル・シャルネ」に関係しそうな記述は見つけられなかった。もっと詳しく調べたいのだが、ちょっと余裕がないので、ネットで収集した沈没状態の写真を示すだけにしよう。
Amiral_Charner_scatteled_1947
 ↑どこかの掲示板で見つけた写真。1947年の撮影という。沈んでからさほど時間が経っていないため、マストは失われているものの、装備は割合に残っている。
Amiral Charner
 ↑これもどこかの掲示板から。具体的な日時はわからないが、様子から見て、上の写真と同時期の撮影だろう。写真を見る限り、爆撃を受けて上構が破壊されたりはしていなさそうだ。
Amiral_Charner_scatteled_1967
 ↑この写真は、アメリカ海軍の河川哨戒艇の乗員が、1967年5月に撮影したもの。自沈から20年も経ち、装備品はあらかた消え、煙突も一つ消えている。船骸という言葉がぴったりだが、ベトナム戦争真っ盛りの時にも、「アミラル・シャルネ」がメコン川に残っていたのは驚きだ。写真の出処は、アメリカ海軍のNaval History and Heritage Commandのサイト。
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 ↑このカラー写真も、上写真と同じ人物が、1967年の2月か3月に撮影したもの。艦橋のこちら側は骨組だけになっていて、今にも崩壊しそうだ。出処における記述によれば、この「アミラル・シャルネ」の残骸は、日本の業者が1968年の夏までに解体したという。どこの会社が担当したのだろうか。興味深い。

 知りたいことはまだまだ沢山あるが、ひとまずここまで。